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円山の山神さま
自宅から歩いて藻岩山を目指しましたが、ドロドロの山道に撤退して円山を登ってきました。

ヤマレコの記録⇒「藻岩山途中撤退で円山へ・・・

円山の山頂にある山神さま。歴史を知らなかったので、調べました。
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さっぽろ文庫12 藻岩・円山」から抜粋して書き写しておきます

円山の山神

この奥の院に相対した南端の山頂に「山神」の大きな石の碑が建っている。
石に神霊が籠っているという信仰や、山神を祀る山岳信仰は「延喜臨時祭式」「吾妻鏡」などの古い文献にあるが、眺望絶佳の山頂に鎮まるこの碑の由来は、遠く明治五年十二月に遡る。札幌本府建設のため、開拓使本庁舎などの土台石の石材を求めていた所、請負人の大岡助右衛門が円山の山頂で発見、砕石の許可を受けた。そこで東京方面の石工二十数人を呼んで本格的な採掘をし、最も危険な頂上の現場に守護神として自然石の碑を建て、開拓使上役の高根沢與一郎が書を、石工組頭の源次(当時五十歳くらいの年輩)が精魂こめて彫刻した。翌年採掘は中止となり、碑はいつしか倒れ土中に埋没してしまったが、戦後の昭和二十一年五月、大師堂の世話役を勤める須藤輿八さんが発見、石碑を台座におさめて安置し手入れを日課としていた。このことが新聞に報道され、同三十一年に岩宮自治、奥野清介の二人が中心となり、円山山神神奉賛会を結成。翌年九月十二日札幌地区林材協会と、木友会主催の復興祭と山神八十五周年祭が碑前で執行、子供相撲もあって盛大であった。二年目以降は、九月十一日山頂で宵祭を、翌日は円山公園林地で祭典を執行し、札幌市民の年中行事の一つとなっている。碑の前に「円山の神の石ずえすえしより、永久に栄えむ北の野は」との戸川霽司さんの歌碑が、西の山連みを望んで建っていて、幌都の人々に山岳信仰の悠久であることを教えてくれる。


もう一つ,ネットで見つけました!札幌秘境100選掲示板より

円山の山頂に「山神 明治5年12月」と大きく彫られた石碑がある。
この碑の由来について調べてみた。明治5年といえば、札幌はまだ草創のころ。しかもそれほど高くないとはいえ、山頂に石碑がある。
そのなぞを解いてくれたのが、次の書籍である。
「北海道身近な歴史紀行」地蔵慶護著 99年11月 北海道新聞社発行
この本から、「円山の山神碑」の由来について要約する。

昭和21年5月、登山道入り口の大師堂の世話役をしていた須藤与八さんが、円山の頂上で半ば土に埋もれた自然石を発見した。引き起したところ、正面に「山神」、側面には「明治5年12月」と刻まれていた。
須藤さんは、自分で引き上げ、仮に安置してお参りを続けていたが、昭和31年になって、倒れる恐れが出てきたため、知人の岩宮白冶さんに相談し、きちんとした基礎の必要性を感じた。
岩宮さんは、造材現場などで山の神を祀った鳥居が立っているのを思い出し、札幌地区林材協会に話を持ち込んだところ、同協会では、木材業界の守り神である山の神を近くに祀りたいと考えていたので「ぜひ協会でお祀りしたい。」と答えた。
その後、札幌市史編集委員の田中潜氏の調査により、山神碑は明治5年に円山の山頂で岩石を採掘していた石工たちによって作られたものだろうということが分かった。有志による「山神奉賛会」が作られ、木材関係者や一般市民からの寄付金をもとに基礎工事が行われ、昭和31年9月12日に復興祭が行われ、その後は、札幌地区林材協会が引き継ぎ毎年例祭が行われている。 
「山神碑」がなぜ、札幌の草創期に、おそらく札幌では最も古いとおもわれる石碑が作られたのか。同書著者の推理も交えて説明すると、
明治2年7月、明治政府は北海道に「開拓使」をおくこととし、島義勇が開拓判官となり、本府を札幌に定め、火災を恐れ、石造りの本庁舎を建設することとなった。明治5年、請負人の大岡助右衛門が、円山の頂上で良質の石材を発見し、採掘を出願。東京方面から20人ほどの石工を呼び石材の採掘をはじめた。頂上付近で大割りに採掘した岩石は、斜面を転がし、現在の双子山町付近で小割りにし、そこから土そりに乗せて、いまの円山墓地のあたりに運び、整形して製品にした。そこには、石工たちの宿舎や作業場があり、山頂に向かう通路もあった。
明治5年7月、開拓使本庁舎の建設が始まり、石材採掘も本格化し、石工たちは、最も危険な作業現場の頂上に「山神」を祀ろうと考え、この後何年も続けるであろう採掘現場の守護神としようとした。これにふさわしい「依り代」として頂上付近の自然石が選ばれ、文字の揮毫は開拓使の高官に依頼したのではと思われる。石工の頭は、仕事の暇を見ては、一字一画に心をこめて彫り込んだと思われ、
文字の力強さ、彫りの深さは百数十年の時を経たとは思えないほど。明治5年12月の山の神の祭日に合わせて建立する予定だったと思われる。
ところが、明治政府は、明治5年11月9日になって、突然「太陰暦を廃止し、太陽暦を用いること。明治5年12月3日をもって、6年1月1日となす」という太政官布告を発した。12月はたった2日しかなかく、ひと月早い正月、しかも冬到来となり、石工たちは急ぎ仕事を切り上げて本州に戻った。翌年、改めて建立する予定だったのだろう。
ところが、明治6年になると、円山や藻岩山は豊富な樹種に恵まれた美しい山であり、札幌神社の神域でもあることから、黒田次官が東京から電報で禁伐令を出した。円山に代わる採石場は、明治6年に今の南区川沿で硬石が、8年には石山地区で軟石が発見された。再び石工が募集され、今度は伊豆方面から別の組が呼ばれたため、円山の山神碑は仮安置されたまま、須藤さんに発掘される昭和21年まで眠り続けていたということである。


別な資料で、円山の自然史的な紹介をする。
札幌市中心部の西にあり、標高225.9メートル。古い火山といわれ、ドーム状の山体は紫蘇輝石安山岩で構成され、頂上には柱状節理が見られる。新第三紀の地層が削られ、硬い安山岩体が地表に現れたものといわれる。山林は、大正4年(1915)に原始保安林に指定され、同10年には円山原始林の名称で国の天然記念物に指定された。
札幌本府建設にあたり、開拓判官島義勇の部下たちが、志村鉄一の示唆により当山付近のコタンベツから1里のところを本府建設地としたという昔話が伝わる。コタンベツの丘は山ろくの坂下グラウンドあたりとする説が有力だが、正確な場所は判明していない。( 平凡社発行「北海道の地名」)


円山の山神さま_c0048117_15552913.jpg

by mrkgen | 2012-11-11 23:50 | 里山/montana | Comments(0)