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円山の山神さま
自宅から歩いて藻岩山を目指しましたが、ドロドロの山道に撤退して円山を登ってきました。

ヤマレコの記録⇒「藻岩山途中撤退で円山へ・・・

円山の山頂にある山神さま。歴史を知らなかったので、調べました。
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さっぽろ文庫12 藻岩・円山」から抜粋して書き写しておきます

円山の山神

この奥の院に相対した南端の山頂に「山神」の大きな石の碑が建っている。
石に神霊が籠っているという信仰や、山神を祀る山岳信仰は「延喜臨時祭式」「吾妻鏡」などの古い文献にあるが、眺望絶佳の山頂に鎮まるこの碑の由来は、遠く明治五年十二月に遡る。札幌本府建設のため、開拓使本庁舎などの土台石の石材を求めていた所、請負人の大岡助右衛門が円山の山頂で発見、砕石の許可を受けた。そこで東京方面の石工二十数人を呼んで本格的な採掘をし、最も危険な頂上の現場に守護神として自然石の碑を建て、開拓使上役の高根沢與一郎が書を、石工組頭の源次(当時五十歳くらいの年輩)が精魂こめて彫刻した。翌年採掘は中止となり、碑はいつしか倒れ土中に埋没してしまったが、戦後の昭和二十一年五月、大師堂の世話役を勤める須藤輿八さんが発見、石碑を台座におさめて安置し手入れを日課としていた。このことが新聞に報道され、同三十一年に岩宮自治、奥野清介の二人が中心となり、円山山神神奉賛会を結成。翌年九月十二日札幌地区林材協会と、木友会主催の復興祭と山神八十五周年祭が碑前で執行、子供相撲もあって盛大であった。二年目以降は、九月十一日山頂で宵祭を、翌日は円山公園林地で祭典を執行し、札幌市民の年中行事の一つとなっている。碑の前に「円山の神の石ずえすえしより、永久に栄えむ北の野は」との戸川霽司さんの歌碑が、西の山連みを望んで建っていて、幌都の人々に山岳信仰の悠久であることを教えてくれる。


もう一つ,ネットで見つけました!札幌秘境100選掲示板より

円山の山頂に「山神 明治5年12月」と大きく彫られた石碑がある。
この碑の由来について調べてみた。明治5年といえば、札幌はまだ草創のころ。しかもそれほど高くないとはいえ、山頂に石碑がある。
そのなぞを解いてくれたのが、次の書籍である。
「北海道身近な歴史紀行」地蔵慶護著 99年11月 北海道新聞社発行
この本から、「円山の山神碑」の由来について要約する。

昭和21年5月、登山道入り口の大師堂の世話役をしていた須藤与八さんが、円山の頂上で半ば土に埋もれた自然石を発見した。引き起したところ、正面に「山神」、側面には「明治5年12月」と刻まれていた。
須藤さんは、自分で引き上げ、仮に安置してお参りを続けていたが、昭和31年になって、倒れる恐れが出てきたため、知人の岩宮白冶さんに相談し、きちんとした基礎の必要性を感じた。
岩宮さんは、造材現場などで山の神を祀った鳥居が立っているのを思い出し、札幌地区林材協会に話を持ち込んだところ、同協会では、木材業界の守り神である山の神を近くに祀りたいと考えていたので「ぜひ協会でお祀りしたい。」と答えた。
その後、札幌市史編集委員の田中潜氏の調査により、山神碑は明治5年に円山の山頂で岩石を採掘していた石工たちによって作られたものだろうということが分かった。有志による「山神奉賛会」が作られ、木材関係者や一般市民からの寄付金をもとに基礎工事が行われ、昭和31年9月12日に復興祭が行われ、その後は、札幌地区林材協会が引き継ぎ毎年例祭が行われている。 
「山神碑」がなぜ、札幌の草創期に、おそらく札幌では最も古いとおもわれる石碑が作られたのか。同書著者の推理も交えて説明すると、
明治2年7月、明治政府は北海道に「開拓使」をおくこととし、島義勇が開拓判官となり、本府を札幌に定め、火災を恐れ、石造りの本庁舎を建設することとなった。明治5年、請負人の大岡助右衛門が、円山の頂上で良質の石材を発見し、採掘を出願。東京方面から20人ほどの石工を呼び石材の採掘をはじめた。頂上付近で大割りに採掘した岩石は、斜面を転がし、現在の双子山町付近で小割りにし、そこから土そりに乗せて、いまの円山墓地のあたりに運び、整形して製品にした。そこには、石工たちの宿舎や作業場があり、山頂に向かう通路もあった。
明治5年7月、開拓使本庁舎の建設が始まり、石材採掘も本格化し、石工たちは、最も危険な作業現場の頂上に「山神」を祀ろうと考え、この後何年も続けるであろう採掘現場の守護神としようとした。これにふさわしい「依り代」として頂上付近の自然石が選ばれ、文字の揮毫は開拓使の高官に依頼したのではと思われる。石工の頭は、仕事の暇を見ては、一字一画に心をこめて彫り込んだと思われ、
文字の力強さ、彫りの深さは百数十年の時を経たとは思えないほど。明治5年12月の山の神の祭日に合わせて建立する予定だったと思われる。
ところが、明治政府は、明治5年11月9日になって、突然「太陰暦を廃止し、太陽暦を用いること。明治5年12月3日をもって、6年1月1日となす」という太政官布告を発した。12月はたった2日しかなかく、ひと月早い正月、しかも冬到来となり、石工たちは急ぎ仕事を切り上げて本州に戻った。翌年、改めて建立する予定だったのだろう。
ところが、明治6年になると、円山や藻岩山は豊富な樹種に恵まれた美しい山であり、札幌神社の神域でもあることから、黒田次官が東京から電報で禁伐令を出した。円山に代わる採石場は、明治6年に今の南区川沿で硬石が、8年には石山地区で軟石が発見された。再び石工が募集され、今度は伊豆方面から別の組が呼ばれたため、円山の山神碑は仮安置されたまま、須藤さんに発掘される昭和21年まで眠り続けていたということである。


別な資料で、円山の自然史的な紹介をする。
札幌市中心部の西にあり、標高225.9メートル。古い火山といわれ、ドーム状の山体は紫蘇輝石安山岩で構成され、頂上には柱状節理が見られる。新第三紀の地層が削られ、硬い安山岩体が地表に現れたものといわれる。山林は、大正4年(1915)に原始保安林に指定され、同10年には円山原始林の名称で国の天然記念物に指定された。
札幌本府建設にあたり、開拓判官島義勇の部下たちが、志村鉄一の示唆により当山付近のコタンベツから1里のところを本府建設地としたという昔話が伝わる。コタンベツの丘は山ろくの坂下グラウンドあたりとする説が有力だが、正確な場所は判明していない。( 平凡社発行「北海道の地名」)


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by mrkgen | 2012-11-11 23:50 | 里山/montana | Comments(0)
神社山(237m)
神社山は、宮の森と円山西町の境界線にある北海道神宮の山です。住宅地に囲まれていて、神社山に取り付く場所は限られた場所、山の西側の隆光寺前付近か、北東のマンション辺りだけです。
その両方の場所に下記の看板が立てられていました。
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この山には登山道がないので、残雪期とかに登られることが多い山です。毎年と言うか春先の固雪の頃に1・2度登るこの頃です。今年の2月に登った時に、夥しい数のピンクテープや、団体で登ったと思われる跡や、以前にはなかった山名板が頂上の木についていました。ひっそりと静かな山が、妙に世俗的になったようで悲しかったです。今になって北海道神宮が看板を立てた真意は分かりませんが、なんとなく目に余る入山者の数が引き金になったのかなと思わなくもないです。私も目に余る一人だったかな(^_^;)

『写真で見る札幌の戦跡』という本が、北海道新聞社から去年の暮に発行されました。その中にも神社山にある戦跡のことが書かれています。そのことも神社山へ入る人が増える懸念になったのかも知れませんね。登る時は、北海道神宮の山ということを意識して、神聖な山に登らせていただくという気持をもって登っていたつもりだったけど、不信心を見透かされていたかな。そんな不信心な人間は登っちゃいけない山ということだわ。

神社山の歴史→→「神社山」に書いています。飛んでみてください。
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by mrkgen | 2011-06-03 20:25 | 里山/montana | Comments(0)
琴似川に架かる橋
大掃除を始めようと、あちこち片付けていたら、町内の古い地図がでてきた。何気に見ていると、琴似川に架かる橋の名前が書いてあるではありませんか!

先日「消えた地名・12軒」を探索した時に、琴似川に架かる橋を気にして見ていましたが、橋名板がついていたのは「環状橋」「宮の森下12軒橋」と、この「宮の森11号橋」だけでした。
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どこから数えて11号なんだろうと、戻る時に橋の数を数えたのですが、数が合わない(>_<) 地図を見ると、「中12軒橋」という名前を見つけた。名前のない橋もありますね。中と下があるなら「上12軒橋」かも。すべての橋に名前がついているとは限らないのでしょうが、何かしら個別の記号とかがついているものじゃないのかな。どこで調べれば分かるんだろう。
 ※昭和52年市バス路線図を使ってます。クリックで大きく見れます。 
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そんなことを考えていたら、さっぱり掃除が終らない、。あぁーーー、今年も明日で終わりです。そんなこんなで来年も好奇心いっぱい、元気に楽しく過ごしたいです。こんな支離滅裂のブログに遊びに来てくれて、ありがとうございます。コメントしてくれた皆様、とっても励みになりましたワンワン。

皆様、よいお年をお迎えください。来年もよろしく♪
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by mrkgen | 2010-12-30 23:50 | あちこち | Comments(2)
円山西町から旭山公園へ
12日の日曜日の夕方散歩で久しぶりに円山西町方面へお散歩。円山西町神社の横を通って藻岩山への登山口へ、滑る車道の横を歩きます。(怪しい)産業教育訓練センターへの道に架かる「滝不動橋」の手前に、公共の公園かと思われる立派なお庭が出来ていました。円山西町に住んでいる知人の話では、なんでもその筋の方のプライベイトなお庭だそうです。ヒェ~~(@_@) 自販機が3つもお庭の中にあったわ。
「滝不動橋」を渡って、登山口のすぐ側にある奉信寺が右側。そういえば、この辺に不動滝があるはずと、お寺の裏にあるお堂の辺を見てみました。立派な砂防ダムに滝がありました(爆) まさか不動滝が砂防ダムに変身?なわけないですね。
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どうやら奉信寺の手前の「滝不動橋」の下流になるようです。たぶんこの砂防ダムの影響で、不動滝も迫力に欠けるものになっているんだろうな。次回の課題ですね。藻岩山の登山道に入ると、こんな雪の日でも歩いている人がいるらしく、しっかりとしたトレースがありました。途中から旭山公園に抜ける道へと進みます。旭山公園のなかに入ると、お散歩の人もチラチラ見かけます。

前日の暖気から急速に冷えたので、フカフカ雪の下は所々アイスバーン状態で、ペンギン歩きです。抜き足差し足じゃないけど、どこにスケートリンクが潜んでいるか分からないので疲れましたわ。真面目に公園の正面に出ました。公園の入り口の横になにやら看板が。この頃は「消えた十二軒」じゃないけど、何かしら昔の痕跡に興味がわくのでシゲシゲと観察。
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窯の跡が東屋風な屋根に守られていました。以前からあったのに、今まで気がつかなかったなんて、興味がないと見ていてもみてないんですね(~_~;)
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帰りは旭丘の西友でチラッとお買い物して帰ってきました。グルッと一回り2時間コース。雪道の隠れアイスバーンがなければ、もっと時間短縮でしょうね。でも、ヘロヘロ、。

円山西町の歴史:郷土誌 宮の森から

昔は滝ノ沢と呼ばれた地区です。東南は藻岩山に続き、東は吉野山(旭山)、双子山を望み、西南から西方は幌見峠・神社山を見渡す沢地帯を形成しています。琴似川支流ヨコシベツ川(円山川)は、南部山林地帯を水源地としてこの沢地帯に流れ入り、地区の中央を北流して円山山麓から円山公園に注ぎ、神宮第二鳥居下を経て北7条西25丁目で琴似川と合流しています。

この川の上流に「不動ノ滝」と呼ばれる滝があり、滝ノ沢という地名もここからきています。当時は水量も多く、緑の大木の間を縫う日の光を受けて青白く、秋の紅葉に映えて美しい景観であったそうです。
明治初期は、とど松、えぞ松、桂、ナラなどの大木が群生していて、熊、狐、狸などの野生動物がよく出没していたところです。特に往時は鹿の群生地であったか、あるいは通路であったのか、不動の瀧付近の開墾につれて、たくさんの鹿の角が出て来てレーキでかき集めて、これを処理したほどです。明治20年頃の大雪で、えぞ鹿のほとんどは死滅したものではないかと思われます。

この頃から、民間の建築用材原木や薪炭材として払い下げを受けて搬出するようになり十数年に及びました。
『円山西町の沿革』によれば、明治27・28年頃、滝ノ沢の一部が民有地として払い下げられるようになり、明治29年、山形県出身の○○○一家が入植、、、


以下省略。当時の呼称は、藻岩村大字円山村字滝ノ沢。

昭和28年7月、滝ノ沢という呼称は、当時定山渓鉄道の駅名であった豊平町の滝ノ沢と混同し、来客・郵便物等に不便があるため、町名を円山西町と改めました。

郷土誌 宮の森
平成2年10月10日発行
制作者:札幌市立宮の森中学校
発行者:札幌市宮の森中学校開校5周年 記念事業協賛会

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by mrkgen | 2010-12-13 23:41 | 里山/montana | Comments(2)
消えた地名・十二軒を探して、、
八軒や24軒は地名として残っていますが、十二軒およびその上部の十二軒沢は昭和18年に「宮の森」と改名されたことは、前回の記事で書きました。そして「十二軒」の地名は、十二軒通りという通りの名前に残っている事の続きです。「北海道の歴史をもっと知りたい!」のブログに書かれていたことの他に、十二軒がないか、ぶらぶらと見分してきました!

ここから(宮の森2条11丁目付近)十二軒通に入ります。道道宮の沢北一条線(旧国道5号線)までが十二軒通りです。
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この道の両脇に建っている電柱に十二軒の文字が見られます。この辺は【20】前後の数字で下に降りるにしたがって、数字が小さくなり山の手通りで【1】それ以降は十二軒の名前はなかったです。上は【35】が一番大きな数字で、それより上には十二軒の名前はありませんでした。
※電信柱の記号も不思議。この記号オタクの人も、いるんだろうな。 
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十二軒通りの側には琴似川(十二軒川)が流れています。その川に架かっている橋です。反対側は西高のグラウンドになります。
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そして以前、ワンの散歩で見ていた公園「宮の森十二軒緑地」です。古くて大きな木が多く、夏は薄暗く陰気な公園です。夜は近づきたくないです。緑地と言うには、余りにも小さいのですが、十二軒の名前を残しているのには、昔の地名を大事に残したい気持ちかも知れませんね。(宮の森2条8丁目)
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昭和52年の市バス路線図に残っていたバス停の名前が「十二軒通」。現在は「宮の森3条6丁目」に変更されています。バス停の名前として使っていたのなら、なんで残しておいてくれなかったんだろう。条・丁目のバス停なんて、味気がなくて面白くないな。
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十二軒通りを歩いていると、クネクネしている琴似川を何度か横切りますが、ほとんどの橋に名前がついていません。道道宮の沢・北一条線が通る橋には名前がついていました。橋に名前がつく基準ってなんだろう。
※橋名板:1.道路起点右側に橋名(漢字) 2.道路終点右側に完成年月日(漢字) 3.道路起点左側に河川名(漢字) 4.道路終点左側に橋名(ひらがな) 
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琴似川はココで十二軒通が終るので、二十四軒へ下り、中央市場から競馬場の辺りは暗渠になるようです。川のことも調べると、昔の街の成り立ちや開発の歴史が分かるんですね。奥が深いわ。
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十二軒の名前が、宮様が遊んだ地だからということで「宮の森」という地名に変更されたのは、なんかスノッブな感じでいかがなモナカです。天皇が現人神であった時代のなせる業なのかな。十二軒という名前が、もっといろいろな所に残っていないか期待したのですが、時代の流れに飲み込まれてしまったようです。地名を変更するということは、その土地の歴史を考えると、難しい問題ですね。まぁ、宮の森と言う名前も歴史と言えば歴史だけど、、。
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by mrkgen | 2010-12-11 23:19 | あちこち | Comments(6)
郷土誌を読んで、、
c0048117_1945330.jpg先週の土曜日のHYML忘年会の席で、同じ町内に住んでいる方がいらして、2冊の小冊子を貸してくれました。郷土史といえるもので、「郷土誌 宮の森」と「荒井山のあゆみ」です。大変興味深く読んでいます。まだ借りている中(^_-)

近所に「十二軒通り」という通りがあります。ベテランのタクシー運転手だと、分かってくれますが、あまり有名じゃない通りの名前です。八軒二十四軒は住所の地名として残っていますが、十二軒は、この通りの名前があるだけで、不思議でした。上記の2冊の本を読んで、疑問が解けました。すっきりじゃ~!

二軒・八軒・十二軒・二十四軒と分かれた移住者たち。十二軒とその上部の十二軒沢の辺りは、神社山・荒井山・三角山があり、昭和3年に秩父宮、翌4年に高松宮が来道し、スキーを楽しまれました。昭和5年から宮様スキー大会がこの地で開催されるようになったことから、昭和18年に琴似村が町制を施いた時に十二軒十二軒沢が「宮の森」と地名が改められたそうです。宮様が遊んだ場所なので「宮の森」と命名されたとは聞いていましたが、琴似村字十二軒・琴似村字十二軒沢からの改名だったとは知らなかったです。ここで十二軒の地名が消えたんですね。

十二軒通りのことを書いているブログみっけ!
→「北海道の歴史をもっと知りたい!」

神社山の洞窟の疑問も解けました。神社山の記録に書き足しておきました。なんだか郷土に興味がわくようになったのは、年のせいかもね!

郷土誌 宮の森
平成2年10月10日発行
制作者:札幌市立宮の森中学校
発行者:札幌市宮の森中学校開校5周年 記念事業協賛会

荒井山のあゆみ
昭和49年4月30日発行
発行者:荒井山町内会

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by mrkgen | 2010-12-08 07:22 | あちこち | Comments(6)
西高山(340m)
大分前から情報があった、盤渓小学校の裏にあろ西高山に、やっとこさ登ってきました。自宅から荒井山~大倉山~奥三角山と登り、盤渓墓地の前を通って盤渓小学校へ。小学校のグラウンドの山際に、立派な看板が出ていました。
クリックで大きく見れます。
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ヤマレコに詳しく書きましたよん!→「荒井山~西高山」 

登山道に、アカミノヤドリギが落ちていました。
西高山では、誰にも逢わない静かな山でした。
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西高山の歴史:郷土誌 宮の森から「西高の盤渓学校林」

昭和二年(1927)2月27日、盤之沢1924番地の山林九町二段四畝一四歩を諸橋三郎さんより、代金二千円をもって某中会(旧札幌西高会)が購入し、二中山と命名しました。翌三年五月には植林地二中山に全校生徒千名・職員一同と共に、落葉松五千本、とど松三百本を植林しました。地所は盤之沢小学校の東背面より起こる山脈の西南面を占め、一部に耕地を含み、笹藪をもっておおわれ、白樺・柳棒等の稚樹が点在し、地味肥沃で眺望絶景でした。同年秋には、さらに落葉松苗千本を植樹しました。

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by mrkgen | 2010-11-21 18:51 | 里山/montana | Comments(2)
バーゲンの後で里山散歩
秀岳荘バーゲンが明日で終わります。バーゲンの混みこみが超苦手なんですわ(>_<) でも、いくつか欲しいものもあるので、晴天の土曜の朝一なら、混んでいないだろうと頑張って行ってきました。10時チョットに着いたら、駐車場もがら空きですんなり駐車できましたわ!(^^)! 買わなくちゃいけないものには目もくれず(^_^.)とりあえずウロウロ。やっぱり素敵なデザインのMサイズとかは、ないですね。良かった、無駄な買い物をしないで済みました。。買わなくちゃいけないものをゲットして、フラフラしていたらお知り合いがやっぱり来てました!(^^)! 今日が3度目って言ってる人も(@_@) 家に帰ってチェックしてたら、あれも欲しかったなぁと、、。明日、行こうか悩んでます、。

午後から裏山散歩。荒井山から大倉山、奥三角山まで足を延ばしました。
ヤマレコにちょこっと山行記作りましたわ(^_-) 
→「荒井山-大倉山-奥三角山-小別沢
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3人ほどに逢っただけで静かな里山でした。
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奥三角山の直登コースは、たぶん先日の重たい雪で倒れたと思われる倒木で、道が分かりづらくなっていました。本当は奥三角山まで行く気はなかったのですが、道が分かりづらくなっているのを見ると、俄然行く気がムラムラ!(^^)! 頑張って登ってきました。
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先日の雪はすっかり消え、晩秋の里山を楽しんできました。奥三角山から小別沢方向へ下ると、小さな壊れかけた小屋があって、気持ち悪かったのですが、小別沢鉱山(円山鉱山ともいう)の跡だというのが分かりました。そうと分かれば気持ち悪くて写真を撮っていなかったので、撮って来ましたわ。。

円山鉱山:手稲鉱山と同じタイプの鉱床で、テルルを含む金銀石英脈や銅や亜鉛を掘っていたそうです。テルルってなんじゃ。レアメタルかな。昭和30年くらいに休山したまま現在に至るようです。

奥三角山から小別沢への道は林道跡っぽく、広くて歩きやすい道なのは、この鉱山のためだったのかもね。
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帰りはばんけいに回るか小別沢にするか迷いました。
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ばんけい方向へ歩き出すと泥道になったので、ユーターンしてあっさり小別沢トンネル経由で戻ってきました。

北海道建設局土木部のページにこのトンネルの説明がありました。
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小別沢トンネルは、農作物の輸送時間を短縮するために小別沢地区の有志の方々が出資し、昭和2年頃に発破をかけながらノミなどの人力作業で掘った素掘トンネルが始まりでした。その後、昭和30年の本市と琴似町の合併時に札幌市道として認定され、通算して約70年もの間、利用されてきました。 

しかし、長年にわたる使用のため、トンネル内部の岩盤の風化による老朽化が著しく、また、全幅が3.5m程度と非常に狭く乗用車1台がようやく通ることができる小さなトンネルであったことから、円滑な通行や安全確保を図るため、本市建設局において、平成11年度から新しいトンネルの整備事業に着手いたしました。
 
平成15年4月25日に開通した新しい小別沢トンネルは、延長が231.5m、道路幅員が9.5mとなり、旧トンネルに比べますと非常に大きなトンネルとなりました。また、トンネル前後の道路には、西区側約70m、中央区側160mの区間にロードヒーティングを設置しております。

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小別沢(コベツサワ)の名前の由来はアイヌ語で「ク・オ・ペツ」。意味は『仕掛け弓を置くところ』だそうです。このトンネルが通る前は、小別沢から札幌まで出るのに山道を2時間以上かけて歩いていたそうです。
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大倉山へ登るぐらいから汗だくになったので、半袖に。奥三角山から小別沢へ降りるまで、ズーーッと半袖Tシャツで歩きました。先日積もった雪、夢のできごとみたいですね(^_^.) 2時間半ほどの里山散歩でした。

 
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by mrkgen | 2010-11-06 20:20 | 里山/montana | Comments(6)
GWなのね
朝のお散歩、どんよりの割には気温が高かったです。この寒空の下でも、朝早くからBBQの支度に余念のないグループが何組かいました。
公園口鳥居から境内へ歩いてみました。それなりに出店はされているようです。でも、このお天気じゃ客足も少なさそう。。
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奥の梅林から、標本木方面はまだ枯れ木のようです。9日に開花予想がでていますが、本当に咲くのかしらという感じです。この標本木、結構な老木のようです。奥の木はエゾ山桜で、このソメイヨシノよりは先に咲きますが、まだ枯れ木のようですね。
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神宮の桜の云われが書かれたものが、標本木の側にあります。これを読むと、山野草を盗掘してお庭に植えるのと、感覚が似ているような。なんか違和感を感じてしまいました。
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by mrkgen | 2010-05-01 07:22 | 樹木の花/flor | Comments(0)
神社山(237m)
今朝もジェイの散歩で、今時期の堅雪狙いの神社山を登ってきました。

周回コース:1時間

この頃は「ヤマレコ」に書くことが多く、ブログと両方に書くのが、面倒だわ。ということで、リンクしましたので、見てみて。「ヤマレコ」は山行報告に特化したサイトで、とてもよく考えられているようです。HYMLで教えてもらい、一月ぐらい前から使い始めてますが、やっと分かってきたかな(^_^.) 
ルート図も見れるし、いろいろ奥が深いです。
クリックしてみて→神社山

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不思議なケルンを見っけ!
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後日(3/15)林道跡を探検散歩しました。今まであの先はどうなっているの、という疑問が全て解けました!もう、神社山はどこからでも登れるぞーという気分ですが、雪のない藪の時期は嫌じゃね。ジェイも嫌じゃよな(^_-) 「ヤマレコ」にアップした3/15の神社山の記録です。写真もイッパイ出しているので、興味がある方は見てみて。

荒井山から見る神社山。3月10日は、左の低い所から登って、右に降りています。15日は右から左に降りています。今年は、もう登れないかな。
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神社山の歴史:郷土誌 宮の森より

元十二軒沢と呼ばれた通称・荒井山町内は、浜崎商店(現・セイコーマート)の所で琴似川の本流を跨いで流れの両岸に広がっています。右岸沿いの道を新道と呼び、左岸沿いに伸びている道を旧道と言っています。新道は昭和36年に開設されたもので、南進すると正面にそびえる一山があります。荒井山町と円山西町の境界をなすこの小高い山は、神社山と称し、明治30年2月、札幌神社(現・北海道神宮)の所有地となりました。樹林育成に努め、森の樹木にも太古をしのぶ樹齢をみることができ、全て北海道風致地区に指定されています。昔は「エプイ」(蕾のような小山)と呼んでいました。北海道神宮の参道から見ると、本殿の真裏に位置し、四季の彩りに悠然と据わり神宮の尊厳を深めています。

戦争末期の昭和20年春から荒井山町の人々には全く予期しない、寝耳に水の大変な出来事が持ち上がりました。北部軍司令部の命令で神社山の山すその各所に洞窟掘削の作業が開始されたのです。
ピックハンマーやドリルの轟音は、日夜住民の耳をつんざく程でした。その作業に駆り出されたのは軍属の日本人技術者や朝鮮人労務者など、その数は三千人ともいわれ、山すそにはバラックの宿舎が数十棟も急造されました。札幌市内からも連日何百人もの勤労奉仕隊が参加しました。掘削作業は日夜絶え間なく続けられ、轟音の明け暮れに地域住民はどうなることかと不安におののいた日々が敗戦の日まで続けられました。

この洞窟には北部軍司令部がたてこもるため、米軍の爆撃に耐える地下壕として計画されたもので、神社山に縦横数本づつの隧道を掘り、岩盤の固さや作業の難易などの調査のための試掘の段階で終戦をむかえました。なぜ神社山が選ばれたかは定かではありません。おそらく札幌に近く通信連絡に便利なこと、山の大きさが洞窟の規模に適していたこと、岩盤が固く爆撃に耐えること、などが考えられます。神社山の山すそには今でも掘りかけの洞窟が10ヵ所以上も痕跡をとどめています。そのほか山頂に向かって大人の背丈を没する程の壕も構築された形跡が、山腹に幾すじも残っています。

敗戦と同時に残留させられた朝鮮人労務者には着るものも食べるものも充分に与えられず、やむをえず、付近の畑作のばれいしょやかぼちゃで飢えをしのいだようです。宿舎の壁も屋根も引きはがして焚却にし、その日で芋やかぼちゃを焼いて食べていました。10月半ばまでに、全員が本国へ送還になったようです。

洞窟掘削も、工事期間が短かったため、大きな影響もなくて済みましたが、この期間は悪夢のような一時期でした。もしも、この作業が一年でも早く開始されるか、又は敗戦が一年でも遅れていたなら、神社山の形はもちろん、荒井山町の様子も大きく変わっていたでしょう。


郷土誌 宮の森
平成2年10月10日発行
制作者:札幌市立宮の森中学校

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by mrkgen | 2010-03-10 23:10 | 里山/montana | Comments(6)